由良砲台跡  内海村の西端由良岬は、眼下に広がる豊後水道を隔てて対岸の九州までは、わずかに30キロメートルほどで、晴れた日には大分県から宮崎県に至る長い海岸線を望むことができる。
 この水道を一望できる崖の上に残っているのが、旧日本海軍「由良衛所」跡。かつて太平洋戦争期までは広島県呉に海軍の鎮守府が置かれ、連合艦隊の泊地となっていたため、豊後水道は軍事上の要衝だった。そのため昭和11年から敵の艦船や潜水艦の侵入を防ぐ目的で建設されたのが「由良衛所」である。2基の磁気探知機や12箇所の海底に捕音機を敷設し、水中聴音機に結んで艦船のエンジン音を聴取していた。砲台は2箇所あり、高射機関銃が3基あった。
 兵舎は3棟の頑丈な鉄筋コンクリートで屋上には草を植えて偽装していた。兵員は戦艦大和の生存兵を含め200人以上になっていた。
 終戦時には爆破されたものの、わずかに残る砲台跡、兵舎跡、地下壕などは今も歴史の無言の証人である。
※参考文献;平成6年原田政章著「由良半島」
平成9年(社)四国建設弘済会発行「南予の土木遺産100選写真集」
由良大権現
 由良大権現は由良岬最西端に鎮座し、昔から内海浦、下灘浦(現津島町)の総鎭守として崇敬深く、宇和島藩主の祈願所で、藩主の狩の際には幣帛を献ぜられた由緒ある社であった。
 創建については次のようにいわれている。
 平城天皇の御世(西暦806〜809年)に三好蔵人入道秋山という者があり、常に大通知騰仏を修護していた。平城天皇が崩御した後、天下国家のために優婆塞道を学び、由良山に大白星が天降るとの不思議な霊夢を見たため、この由良山に来て大通知騰仏を勧請し、由良大権現と崇め奉ったという。 (三好家文書より)
 伝説によれば最初の勧請地は由良岬突端にある大猿島の断崖上にあったが、のちに岬突端高地の丸山フルヤシキに転座し、更に現在の位置に三転したといわれる。
 寛永8年には赤松忠兵衛忠次が勲功により藩主伊達秀宗から竹ケ島並びに串灘を拝領し、この時下灘浦(現津島町)の内、須下浦に御旅所を建立したという。本殿は貞享2年頃火災で焼失し、元禄13年(1700年)4月9日に下灘浦名主赤松忠兵衛祐重と内海名主赤松忠太夫氏綱が再建した。 (由良大権現棟札より)
 このころ由良権現を下灘浦(現津島町)の内、須下浦赤碆に分置し、由良神社として祀ったと思われる。
 由良岬にある由良権現は享和2年3月15日にも大破のため再建し、ついで天保9年にも再建したといわれる。今では社は朽ち果ててしまい祀る者も少なくなっている。
 一方、下灘浦で祀った由良神社は天保8年(1837年)に下灘浦の総鎮守として遠いという理由で、現在の位置(下灘浦の内、坪井浦山崎鼻)に移転した。神社移転の時、由良権現の怒りに触れ、赤碆と山崎鼻の間に水の堤ができ、船が通れなくなった。由良権現の怒りを静めるため、村人が相談して十二丁櫓の新造船二隻で押し合いをして、波を起こして水堤を突き破った。この故事が由良神社の「はだかまつり」の和船競争の始まりとされている。この祭は戦後一時期中断されたが、今でも津島町下灘地区で毎年7月15日に行われている。(写真は津島町下灘須下地区にある由良神社)
※参考文献;昭和28年大澤宏堂著「内海村史上巻」477頁
        平成8年武智利博著「愛媛の漁村」
法華石城跡
 法華石城は須ノ川地区の西台地に位置し、比高100メートルから山麓部まで尾根より麓に郭を構成する連郭式縄張りを有し、海浜に面した防御線と西方に船附砦という砦を持ち、内海湾を一望できる位置に存在し、内海の見張城としての性格を持った城郭である。城郭遺構は階段状に三区画された郭があり、上段部にはL字状の郭を有し、西端の石垣遺構に接した部位に望楼的遺構により海域の監視を可能にしていると思われる。中段は本郭遺構と考えられるが、現在では農道や開墾が進み一部消滅している。下段は中段の本郭との境を土塁によって固められている。土塁の直下には南面に広がった武者溜・帯郭の遺構があり、土塁の東端には、虎口を設けて有事に備える構えとなっている。
 海浜に面した山麓の西方の最下段には犬走を設けている。その内側には武者走りが40メートルあり、その両端と中間にはタコツボ状の武者溜を設けている。東方山麓には1メートル程度の石垣遺構が5段あり、敵の侵入を妨害するための柵状の砦遺構と想像される。
 残念ながら築城者及び築城年代は定かではない。須ノ川地区の地元民からは「やつみの城」と呼ばれ、土佐の戦国大名長宗我部氏の武将との一騎打ちの伝説などが残っている。また、この城の斜面下方には無数の墓や五輪墓が現存し、その麓からはたくさんの太刀や、矢の根などが発掘されたと言伝えられている。
浦和家魚類製造家屋

 明治23年に浦和盛三郎が建設した水産加工場。長さ二十四間でその当時南宇和郡で最大の建物であった。
 特に建設時に書き残された棟札は日ごろ抱懐されていた日本水産界の進路や、今後の抱負経倫を述べたものである。これを見ると誠に気宇壮大で盛三郎が進取の気象に満ちた一大人物であったことがうかがわれる。昭和60年に内海村指定文化財となっている。
「本邦海産豊饒なるは、天与の然らしむる所にして、採りて尽さざる無尽蔵というべきなり。然りと雖も之が製造精選ならざれば、天の与賜を画餅ならしめ、海産の旺盛を望むべからざるなり。海産の隆盛を企図せんと欲せば、捕獲の術、製造の精、宜しく並行すべきなり。両者其の宜しきを得て、はじめて旺盛を視るに至る。
 「其れ英国の如き、世界に冠たる海軍の資を海産に求む。其の所以は捕獲製造の規模大にして、両者具備の完全なるによる。蓋し大日本国は東洋の孤島にして、東洋の英国なりと世人の膾炙する所なり。英人もまた人なり。大日本国人も人なり。至公至平の天賦を有し、英国に異なるの理何くにあるか。啻に恨む、人為の作用、力の異なるによる。茲に以って本建築をなし、海産製造の旺盛を計るにありとするも、英国規模の九牛の一毛に及ばず。嗚呼、遺憾なりとす。
 蓋し英国海産上に凌駕し、彼の英国東洋艦隊をして寒心せしむる如き挙行を、後世に切望すと云うのみ。
 明治23年3月 浦和盛三郎 稿 」
 奇しくも昭和16年(1941年)、旧日本軍はマレー沖海戦にてイギリス東洋艦隊主力艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を航空機にて撃沈した。明治23年(1890年)を下ること50年余にして、盛三郎のいう英国東洋艦隊をして寒心せしむる挙行を遂げた事は周知の事実である。
網代の防風石垣  由良半島は季節風が強く、台風の被害をまともに受けるため、海に近い家は高さ2mを越える見事な防風石垣を造って守ってきた。時代が変わった今では、鉄筋コンクリート作りの新しい住宅が立ち並び、あちこちに見られた防風石垣も僅かに残存しているだけとなった。
※参考文献;平成9年(社)四国建設弘済会発行「南予の土木遺産100選写真集」
網代三玄院  三玄院は元々京都にあり、永正5年(1508年)本覚寺開基騰蓮社團誉上人の弟、嘆誉壽讃和尚が創建したが、明治に至って廃寺も同然となっていたものを、網代に移転を出願し、明治27年12月27日に県知事の許可を受けて再興したものである。
※参考文献;昭和28年大澤宏堂著「内海村史上巻」487頁
網代開拓由来  明治26年に記された網代地区開拓の歴史を記した書。網代開拓の功労者浦和家の事跡に終始しているものの、江戸時代における漁村開拓の重要史料である。昭和60年に内海村指定文化財となっている。
船越運河  由良半島は南北宇和郡の郡境にあり宇和海に13kmにわたって突き出しているため、舟航は非常に時間のかかるものであった。その上岬付近は波が荒く、僅かの風でも小さい船は航行できず災難を受けることも多かった。昭和8年には旅客船「大和丸」が由良岬沖で沈没し、14人が亡くなっている。
 半島の中間部にある船越地区は鞍部と地峡になっているため、昔はここで舟を陸渡しするのに、酒を1升か2升出して担いでもらったものだという。ここに昭和35年待望の運河が掘られることになり、昭和41年総延長200m、幅25m、水深5mの運河が完成した。掘削した現場は、北側は岩盤であるが南側は砂礫や石であるため、水深7mの海底からの施工となり、難工事であったという。波が荒いため防潮堤の基礎は20tの石を使っている。掘削部は架橋で連絡している。
※参考文献;平成9年(社)四国建設弘済会発行「南予の土木遺産100選写真集」
五輪墓
 内海村における五輪墓は柏、須ノ川、平碆、油袋の各地区から200基あまり発掘されている。特に油袋地区では50基以上の五輪墓が明治の初期に「寺屋敷」といわれている場所から発見された。
 この五輪墓は御影石で鎌倉時代の様式といわれている。高さは70cm〜80cmくらいであるが一つだけ1.2mくらいの五輪墓がある。地位の高い武将が住んでいたのではないかともいわれている。
 現在油袋地区は45世帯くらいの小集落であるが、五輪墓の数から見て、ここには相当古くから人が住んでいたことが想像される。
※参考文献;昭和54年愛媛県教育委員会発行「えひめのふるさとこみち南予編その2」
石造白牛車観音と大わらじ  家串地区と平碆地区の山境にある寛政10年(1798年)の創建の社である。
詳しい創建にまつわる逸話は残されていない。ただ「白牛車」とは「法華経譬喩品」に「火宅の譬」として、火事の家にいる子供に「外に白い牛に引かれた車がある」といって子供を連れ出したという方便としてあり、その譬を冠する全国的にも珍しい社である。特に石塔は北陸方面や関西方面で多く見られ、四国では今治に2塔あるらしいが、石像は日本で この1体しかないのではないかといわれている。今後の調査研究が待たれる。
この「石造白牛車観音」は海の神様で、昔は網が不漁のときに世話役の女性が、漁があるようにとお参りしていたという。今でも旧暦1月18日には参拝する人がいる。
 この社の近くに「うねの松」と呼ばれる大松があり、毎年正月の「念仏の口開け」の日に大わらじを奉納していた。今ではこの大松はなくなっているが、家串地区の反対側の峰にある「竜王様」にも同様のわらじを奉り、家串地区を一跨ぎにできるほどの大男がいると見せかけ、悪病や災厄から地区を守るために今でも奉納されている。
※参考文献;平成12年内海村公民館発行「情報うちうみ196号」
家平トンネル  家串と平碆の両区間は直線距離で僅か400メートルという近さだが、通称うねの松という急坂を登らなければ往来ができなかった。昭和27年ごろから度々トンネル工事の陳情を県に対してしたが、あまり経済的効果の期待が持てないということで、県の事業としてなかなか取り上げられなかった。しかし「村の事業として穴を抜いたら何とか補助の事も考えよう」との言質を引き出た。
 トンネルによって利益を受けるのは家串・平碆の両地区だけということから、実際の費用は両地区がほとんど負担した。地区所有の林を売り、農協から借金をするなど、まさに血の出るような苦労で工事に着工したのが昭和27年6月、費用を切り詰めるため地元民も毎日穴掘りに協力した。こうして苦労を重ねた結果、昭和31年7月に開通、無事故で地区民だけで作り上げたトンネルとして完成した。
 昭和38年に復員拡張工事をし、大型自動車が通れるようになり、平成8年には歩道トンネルが完成し、現在にいたっている。
※参考文献;平成10年内海村発行「内海村50周年記念誌・時成る国、内海」
岩神社巨木群  柏崎の氏神岩神社は宝永3年(1706年)11月の創建で、享保3年(1718年)11月と安政5年(1858)4月に改築したと伝えられている。
 神社規模は小さく境内は狭いが、その境内には昔から地区住民の尊崇の神木として大切に保存されてきた巨木群がある。ウバメガシ、ホルノキ、エノキ、モッコク、ハゼノキなど樹相も美しく近隣にも珍しい暖帯・熱帯性の巨木群である。特に2本のウバメガシは胸高幹周300pと203pのものがあり、樹齢500年とも600年ともいわれており、愛媛県内でも有数の巨木といえる貴重なものである。その他タイミンタチバナ、クチナシ、カクレミノ、アコウ、マサキなどが見られる。昭和60年には村の文化財として指定を受けている。
※参考文献;平成4年(財)愛媛の森林基金発行「ふるさとの森―えひめの社寺林」
串ヶ丘城跡・鳥ノ巣城跡  柏法性寺の南方100メートルの高地に串ヶ丘城跡という戦跡がある。旧街道がこの岡の下をとおり、この岡から街道筋や柏の集落全域が見渡せる。
 城郭の縄張りは岡の地形に順応し、上るに従って郭は小さくなる。北向きの前面が広く南側が狭い。最上段の郭は尾根筋をそのまま残した構造である。この背後に深さ4メートルに切り込んだ大堀切がある。堀切より南側にも三角形の郭が設けられ、この郭が最大郭であったようである。現在3段の郭が残っている事が確認されるが、最上段は幅が狭く見張台的なものだったらしい。2段目、3段目と末広がりに広くなっている。参段目の北面には石垣の一部が残っており、東の谷側には石を混入した土塁が残っている。又北西部にも見張台的遺構が付帯し、北東の一部地点にも堀切跡があることから、全面にもう一段郭が存在したとも見える。最上段の三角形状の郭の南から西へ25メートルばかり離れて、深さ1.5メートル幅3メートルの竪堀が残っている。竪堀の始端には方3メートルに及ぶ巨石が地山を固定し、その山手に土手を築いた溜池がある。この城郭から東の谷を巻いた広大な「猪垣」が残っている。
 この山城の築城者やその時期は明らかでないが、これに対しその東北約1キロメートルの柏川右岸柏坂南麓に俗に「城の首」と称する砦(鳥ノ巣城跡)があり、両者で戦いがあったと言い伝えられている。この両砦の中間で柏川左岸に矢落・廣谷という地名があり、両軍の激戦地であったと語り伝えられ、近代まで両地域で矢の根、太刀などが畑から出土していたという。
昭和天皇御展望の地  昭和23年に昭和天皇の全国行幸の際、内海村柏崎で車を停め海上の風光を展望された。その折説明の青木県知事が由良半島の先端の集落、網代地区を指差して「あの付近の部落は面白い土地で、鰯、濱地、大根、根深など珍しい姓を持った者ばかりでございます。」と申し上げると生物学者でもある昭和天皇は「生物に関係しているね。ずいぶん面白いね。」と声を出してお笑いになったと伝えられる。
 現在では「昭和天皇御展望の地」として展望所兼休憩所として整備している。
火打石  油袋地区の小字火打にある学名「放散虫チャート」(放散虫軟泥が長い期間に固結し固い岩石となったもので赤色のものが多い。チャートとは俗に「火打石」といわれ、昔は鉄片と打ち合って発火道具とした。村内でもこの場所にしか見られない岩層であり、近年庭石と腕によく持ち帰られ、山全体を購入したいとの希望者があったが持ち主がその必要を思い手放さなかったと伝えられる。
 昭和60年に内海村指定文化財となっている。
家串田ノ浦石垣擁壁
 由良半島を通る県道292号線は、昭和30年ごろ失業対策事業として建設がはじまった。戦後まもなく物資の少ない時代、県道建設にあたり山側の切土法面を保護する工法として、雑石を丁寧に根気よく積み上げたものである。石積みには除草や登坂ができるように、突出した足場石が各所に組み込まれている。このような石垣擁壁は終点の網代まで数箇所残存している。
※参考文献;平成9年(社)四国建設弘済会発行「南予の土木遺産100選写真集」
内海ふれあいトンネル  国道56号線にある内海トンネルは、昭和45年に延長859メートル、全幅8.0メートルで完成し、以来南予と松山市を結ぶ唯一の幹線道路として、また地域の生活道路としての役割を果たしてきた。しかし、年々増えつづける交通量に加え、中学校の統合により柏・柏崎地区の中学生は、交通量の多い内海トンネル内を通学せざるを得なくなり、交通事故が発生する危険性が極めて高くなった。そこで既設トンネルと平行して自転車歩行者専用の歩道トンネルを設けることとし、平成元年に調査に着手し、翌2年工事に着工、同4年に延長1,060メートル(内トンネル部分915メートル)、復員4.0メートル、監視カメラ、非常電話、押しボタン通報装置、消火器等の完備された、歩道トンネルとしては日本一長いといわれるトンネルが完成した。以来、中学生をはじめ地元民の交通安全に寄与している。
※参考文献;平成10年内海村発行「内海村50周年記念誌・時成る国、内海」
柏崎清水の井戸  この井戸がいつ頃作られたかは不明であるが、昭和26年に柏崎簡易水道が完成するまでは、この地区の半数近くの家庭が生活用水として利用した大切な井戸であった。
特にこの井戸の水は腐りにくいといわれ、近くの船をはじめ、高知県の船も柏崎港に立ち寄って、この水を積んで大阪方面に行ったといわれる。水を積むだけに柏崎に寄港した船もあったという。
 旧暦7月7日の七夕祭には青年の役目としてこうした共同井戸の掃除が行われていた。
※参考文献;昭和54年愛媛県教育委員会発行「えひめのふるさとこみち南予編その2」
日本の渚・百選須ノ川海岸  豊後水道に向けて細長く突き出た由良半島の根元から南にのびる海岸が、須ノ川海岸である。海岸の延長は約1キロメートル。玉石の美しい浜で、背後の須ノ川公園には、緑の濃いウバメガシが約1キロメートルに渡って群生している。海岸と公園は一体化していて足摺宇和海国立公園の特別地域に指定されている。また平成8年には「日本の渚・百選」に選ばれている。
 海岸からは内海湾を一望することができる。沖合いでは真珠母貝が吊るされた真珠筏が数多く浮かびんでいる。海岸から眺める塩子島、灯台のある黒碆に沈む夕日が実に美しい。夏季にはウィンドサーフィンや海水浴客で賑わい、キャンプ設備の充実した「須ノ川公園」「グリーンパークすのかわオートキャンプ場」と一体となって、多くの人々にアウトドアレジャーや憩いの場として利用されている。
※参考文献;平成8年「日本の渚・百選」中央委員会編集「日本の渚・百選公式ガイドブック」