「内海」の名が文献に現れるのは古く、「加茂社古代荘園御厨」に寛治4年(1090年)7月13日の項に「伊予国内海」と記されているのが最初である。これによれば、当時の内海一帯は京都賀茂御祖社の御厨(神領。荘園と同様の土地)で、今の下加茂神社に漁業権を寄進していた。
その後鎌倉時代には南宇和郡は比叡山延暦寺の下の寺院の荘園となり、京都から代官僧の谷氏が下向してきた。これが後に御荘氏(前御荘氏)を名乗る。室町時代になると御荘氏は土佐中村の一条氏と九州豊後の大友氏によって追われ、代りに一条氏の家臣で勧修寺氏の一族の町氏が治め、後に領主となって御荘氏(後御荘氏または勧修寺氏)を名乗った。さらに戦国時代になると御荘氏は長宗我部氏に降り、長宗我部氏による四国統一がなったものの、それも束の間、豊臣秀吉によって長宗我部氏の所領は土佐一国に削られ、今の南宇和郡は小早川隆景、ついで戸田勝隆、そして藤堂高虎の所領として変遷した。

慶長8年(1603年)の江戸幕府成立の後、慶長13年には富田信高が封じられ、ついで慶長19年には伊達秀宗が宇和郡10万石を拝領し、翌元和元年(1615年)に宇和島に入った。これ以後明治2年の版籍奉還までの260年あまり、つまり江戸時代を通じて宇和郡は宇和島伊達領であった。今の南宇和郡は御荘組(松御荘)とよばれ、今の内海村である内海浦・柏村・須ノ川村はこれに含まれていた。
内海浦は由良半島の先端から御荘湾にかけての広範囲の漁村の総称で、現在の御荘町に含まれる中浦・赤水地区も含まれていた。庄屋職は戦国時代に御荘郷を治めた勧修寺氏の重臣といわれる實藤氏が代々勤め、今の御荘町平山に屋敷を構え、内海浦(網代浦・魚神山浦・家串浦・平碆浦・柏崎浦・中浦・赤水浦)、須ノ川村、平山浦、防城成川浦、深泥浦を治める大庄屋であった。各枝浦には組頭と呼ばれる世襲の役人が治めていた。柏村は現在の柏地区で代々宮下氏が庄屋職を勤めていた。
寛文7年(1667年)の「西海巡見誌」には家串浦17軒、平碆浦11軒、須ノ川浦7軒、柏崎浦9軒、左東風浦(平山浦)20軒、内海深泥浦5軒、貝塚成河浦15軒、赤水大矢崎浦15軒、高畑浦1軒、中浦23軒と当時の家数が記されている。
明暦3年(1657年)に秀宗の五男伊達宗純を吉田藩3万石に分封し、宇和島藩は7万石となったが、家格10万石を維持するため、石高直しによる開墾がこの頃から始り、新浦開発も積極的に進められた。延宝3年(1675年)には魚神山浦が新浦として開かれたのをはじめ、文化5年(1802年)には網代浦の開拓が許可され、天保9年(1838年)に新浦を形成している。

維新後の明治4年(1871年)には廃藩置県によって宇和島藩は宇和島県となり、その後吉田・大洲・新谷県と合併して神山県と称し、明治6年には石鐵県(松山県)と合併して愛媛県となった。県内は大区小区制が採用され、内海一帯は第2大区、ついで第29大区第5小区に属した。その後大区の整理や戸長制の導入を経て、明治17年には内海浦と柏村が合併し「内海浦外一ヶ村」と称した。明治21年の公布の町村制に基づき、明治23年には内海浦と柏村が正式に合併して「内海村」が誕生した。

戦後の昭和23年には飛び地であった平山地区と深泥地区は御荘町に編入され、同じく飛び地の猿鳴・中浦・赤水・高畑・防城成川地区は南内海村として分離独立をし、内海村は現在の網代・魚神山・油袋・家串・平碆・須ノ川・柏崎・柏の8地区からなる内海村となった。
昭和25年ごろには主幹産業であったイワシ網漁が回遊量の激減から産業として成り立たなくなり、多くの住民が職を求めて村を離れていった。昭和30年には産業振興協議会を設立して新たな内海村の地場産業の検討を進め、柑橘栽培、熱帯植物、鯖はね漁、ワカメ・海苔・真珠養殖など、農業漁業を問わず可能性のあるものを試験的にはじめていった。その中でも真珠稚母貝養殖は昭和40年代後半から徐々に生産高を上げ、昭和60年ごろには村の基幹産業として村の発展の原動力としての役割を果たしてきた。教育文化施設・福祉医療施設の整備をはじめ道路・漁港施設等社会資本の充実など住民生活の向上は著しいものがあり、「真珠貝のふるさと」として県内でも稀にみる豊かな村となった。
しかしながら、平成6年に始まった真珠貝の大量へい死により真珠産業が壊滅的打撃を受け、現在にいたるも真珠産業再構築の糸口はつかめていない。
とはいうものの、多くの叡智を結集してこの問題を乗り越え再び「真珠貝のふるさと」としての内海村を取り戻すよう努力していくことが求められている。