古来、真珠は世界各地で好まれていた宝石である。とりわけ日本でも大変愛され、「万葉集」(8世紀成立)にも次のような歌が収められている。

 ・海の底沈く白玉風吹きて、波は荒るとも採らずはやまじ(巻7−1317)
 ・大海の水底照らし沈く玉、斎ひて採らむ風な吹きそね(巻7−1319)
 ・秋風は継ぎてな吹きそ海の底、沖なる玉を手に巻くまでに(巻7−1327)

 これらの歌で「白玉」「沈く玉」「沖なる玉」はいずれも真珠のことで、第三首の「沖なる玉を手に巻くまでに」から、すでに古代から真珠が装飾品として珍重されていたことがわかる。「古事記」の選者太安万侶の墓からも真珠が副葬品として発見されている。もちろんこれらの真珠は天然のもので、真珠養殖という事業は真珠形成の仕組みが解明され、その方法が考え出された明治時代を待たなければならなかった。
 真珠とは「アコヤ貝・クロチョウ貝などの貝類の体内に形成される、主として炭酸カルシウムからなる塊」のことで、貝の体内には貝殻を作る働きをする「外套膜」という器官があり、これが異物によって刺激されると、その周りに真珠質が分泌され、玉のように育ったものが真珠となる。そしてその「異物によって外套膜を刺激する」ことを人為的に行うの真珠養殖である。
 日本の真珠養殖の歴史は明治26年(1893年)に御木本幸吉が三重県志摩で半円真珠(貝付珠)の産出に成功したことに始まる。明治40年(1907年)には西川藤吉(にしかわ とうきち)が外套膜に核を挿入して真円真珠を作り出すという理論と方法を発見した。
 愛媛県においては明治40年(1907年)に小西左金吾が平城湾においてアコヤ貝を購入し、養殖研究に取り組んだのが初めとされている。小西は西川藤吉の弟子、藤田昌世(ふじた まさよ)を招いて研究を委託し、藤田は3厘珠を核として上皮細胞片とともに真珠貝軟体部に挿入する方法で、大正4年(1915年)に真円真珠の産出に成功した。これが真円真珠量産の方法の原型となり、真珠養殖は産業化への道を歩み始める。
 真珠養殖は大きく二つの段階に分かれる。真珠を育てる貝そのものの養殖「母貝養殖」(稚貝養殖ともいい、母貝はアコヤ貝が代表的)と母貝に核を挿入して真珠を産出する「真珠養殖」に分けられる。このうち「母貝養殖」については、内海村が全国一の生産高を誇っている。
 内海村で母貝養殖がはじめられたのは、昭和30年代のことで、それまで内海村の漁業は江戸時代以来、イワシ・アジ・サバ等を対象とする巻網漁や大敷網漁が盛んに行われていた。昭和25年を過ぎたあたりから漁獲が激減したため、新たな産業が求められた。その中の一つが「母貝養殖」である。内海湾の水温(冬季でも15度以下にならない)・餌になるプランクトンの量・潮流などが母貝養殖に適していたためたちまち発展を遂げ、昭和60年ごろには県内でも稀にみる豊かな村となった。ことに、海中で天然受精したアコヤ貝(母貝)の稚貝を杉葉に付着させる天然採描が出来るのは、現在では全国でも内海村と四国西南のごく限られた地域だけである。その意味からも内海村は文字通り「真珠貝のふるさと」である。