僧 誠拙 僧誠拙は延享2年(1745年)に下灘浦之内柿ノ浦(現北宇和郡津島町柿ノ浦)に生まれ、生母の再婚に伴い3歳から7歳までの5年間家串浦で育った。
ある夏の頃、誠拙が縁側で遊んでいると、六部姿の回国僧がやってきて頭を撫で、この子は名僧になる相が現れているから小僧に出されたらよいと言った。母はこの言葉を聞いて臨済宗妙心寺派仏海寺(宇和島市妙典寺前)の小僧に出した。時に7歳、師は霊印和尚であった。
誠拙13歳のとき、藩主伊達村侯が不意に寺を訪れることがあった。霊印和尚は狼狽して迎え、あいにく小僧達が不在で十分な応接ができないため気をもんでいると、誠拙が遊びから帰ってきたので叱りつけて拳骨をくらわした。誠拙は殴られたことに不満であったが、和尚に言われる通り殿様の肩を揉んでいた。殿様が不審に思い、わけを問うと和尚に殴られたことを語り、殿様がどんなに痛かったかと聞くので、「この位でございます。」と殿様の頬を殴った。霊印和尚は万死に値するものとお咎めを待っていたところ、藩主村侯は霊印和尚を城に招き「昨日の小僧は大器に違いない。鎌倉へ遊学させよ。」と言って旅費まで下賜したという。
明和8年(1771年)27歳の時、鎌倉円覚寺に登り佛日庵に入り荒廃していた円覚寺の復興に努力した。31歳の時には円覚寺の長老となった。そして、71歳には幕府の命によって円覚寺189世住持となった。後に大正天皇から彼の生前の仏教興隆に努めた功績をもって大用国師の師号を送られた。
浦和盛三郎 天保14年内海村網代浦に開拓の中心人物盛次兵衛の末子として生まれ、初めは侍を目指して宇和島藩指南番・多都味嘉門に剣を、橋本魯堂に漢学を学んでいた。
慶應2年(1886年)イギリス艦隊が宇和島港に入港した折、盛三郎は仲間の青年藩士と連れ立って見学に行った。艦上で英国仕官から剣の立会いを挑まれたが、連れの青年藩士たちは尻込みするばかりで、血気盛んな盛三郎は勝負を買って出た。「ちびの日本人」と舐めてかかった英国仕官に対し盛三郎は得意のもろ手突きをくれた。油断していた英国仕官は甲板に仰向けに長々伸びたという。
維新の後、明治2年に故郷網代に戻り、子のない兄の家督を譲り受け、イワシ大網2張とマグロ大敷網の拡張に手がけ財を築いた。大敷網や捕鯨術の改良、日本初の綿糸製巾着網の創作、水産加工の振興など明治の黎明期に内海村はおろか日本の漁業近代化に貢献した。
財を築いた盛三郎はまず故郷網代の基盤整備に力を入れた。網代地区民の菩提寺の誘致、小学校の創立、網代ない3地区をつなぐ道路の建設に資産を投じ、特に道路建設は難工事を極めたが、麦の凶作で収入の絶えた地区民の救済の側面が強い。
明治16年には御荘為替店を創立して中小企業の金融に役立て、翌17年には宇和島銀行取締となり大阪支店を開設、同銀行の衰運を盛り返した。支店開設の手腕を買われ、大阪商船の圧力で窮地に陥っていた宇和島運輸社長に招かれ、大阪・別府両航路を確保した。明治21年には大阪に伊予物産会社を創立し、利益を独占していた大阪商人と対抗し、「網代海王」とも言われていた。
県議会議員もつとめ、第1回の特設県会において旧高松藩士族で維新後香川県大属まで勤めた議員松本貫四郎に対し、平民出身の盛三郎は「松本貫四郎の駁議はそれがしに対して礼を失するものと言うべし。(中略)それがし、管内の僻隅に居り、いわゆる井底の痴蛙といえども、また少しく見るところあり。」と一喝し、四民平等・公選民会・開明などの言葉どおり、明治の理想と気骨を県下に見せた。
明治23年には衆議院議員選挙にも改進党から立候補したが、落選したもののその政治的交友関係は広く、大隈重信や犬養毅らとも交流があった。
雲邊寛洲 明治39年内海村は家串地区を中心に赤痢が大流行した。5月19日に最初の患者発生の届があり、8月25日までの間に188名の患者と36名の死者を出していた。そのうち家串地区では患者116名、死者16名にも上っていた。村民は患者隔離小屋の建設や飲料水の配給などに従事して家業を行う余裕さえなく、その上数年来の不漁のため収入は少なく生活は困窮を極め、病気の治療費や薬代の支払にも事欠く有様だった。明治35年に27歳の若さで家串泉法寺住職となった雲邊寛洲は、この惨状を救うには産業を興し相互扶助の産業組合を設立して、不況に備え民生の安定を図ることが急務だとして住民に訴え働きかけた。
明治43年12月に地区有志と協議し、翌年2月に組合設立の認可を受けている。組合設立の最大の障害は出資金であった。貧困の極みにある組合員の生活を圧迫しない出資方法が話し合われ、第1回の出資金は日露戦争の戦役記念として積み立てていた郵便貯金の払戻を充て、2回以降の出資は一口につき毎月大引縄一丸を製縄することを申し合わせ、これを励行した。この縄ない作業によって組合員の現金出資を少なくする方法を考え出した。良い品には現金賞与、不良品には罰金徴収など組合員規約に細かく定め、部落中の者が朝晩の寸暇を惜しんで縄ない作業をし、産業組合として確立させていった。
その後大正3年から5年にかけての遠洋漁業の失敗、9年の経済界の変動、10年の大不漁など、次々と困難な問題が組合員を襲うが、雲邊寛洲の指導のもと部落中が一致団結して設立した産業組合の援助が、少なからずその苦境を救ったといわれている。昭和11年には彼の業績を称え地区住民により頌徳碑が立てられている。
中川庫一 昭和13年に内海村議会議員に就任して以来、昭和23年には村議会議長、昭和30年には村長となり以後20年にわたって村政の発展に尽力してきた。産業振興計画と地場産業の振興、ことに柑橘産業と養殖産業を導入し、「この一本、孫の代には百万両」との名言は村内で今も語り継がれているほどである。国民健康保険制度導入と村営診療所開設など住民の健康管理体制の充実、交通網の整備や教育施設・福祉施設の充実など村の発展に多大な功績を残してきた。特に由良半島の道路開通は不滅の功績であるといわれている。昭和51年には内海村初の名誉村民の称号を贈られた。
牧野彦六 明治時代後期から大正時代にかけて、愛媛県八幡浜・西宇和地区の人々が打瀬舟(全長15メートルくらいの小さな漁船)で遠く太平洋を隔てたアメリカまで、密航を企て渡っていたことがよく知られているが、実は内海村出身でこの密航に参加した者がいた。大正2年(1913年)5月、平碆出身の牧野彦六は西宇和郡川之石村の魚崎亀太郎らと共にアメリカへ向け出航した。
約90日間の旅の果てに、結局は密航であるので捕らえられ日本に送還されることとなった。同年8月10日付けのサンフランシスコ・クロニクル紙(カリフォルニア州の排日運動の口火を切りその運動の中心になった差別的新聞)に密航者9人の内8人の写真及び名前が掲載されている。もう1人は病気で入院中、とあるのが牧野彦六である。密航中に仲間同士の喧嘩となり、そのときに負傷したという。
密航とはいえ小さな漁船で太平洋を渡るという壮挙にアメリカの当局も驚嘆し、現地の日系新聞社やサクラメント、サンフランシスコの愛媛県人会などは義捐金を募るほどであった。
児島惟謙 天保8年(1837年)宇和島藩士金子惟彬の2男に生まれる。幕末期に尊王運動に参加し、維新後明治4年に司法省に出仕する。明治24年に大審院長となり、その直後来日中のロシア皇太子ニコライが巡査津田三藏に傷つけられた(大津事件)。政府や元老はロシアとの関係悪化を恐れ、刑法中の日本の皇太子に対する危害の条文を適用して死刑に処することを望んだ。児島はこれに対し、普通人に対する条文を適用して謀殺未遂をもって論ずべきであると主張し、司法の独立を守った
社会科の教科書には必ず出てくる人物であるが、あまり知られてないことに、大津事件に際する直前の明治23年3月10日、惟謙は本籍を北宇和郡三間村から内海村大字内海586番戸に移している。つまり「大津事件」とその護法精神の発現は惟謙が内海村在籍中のことである。どのような経緯から内海村に籍をおいたのかは今後の調査を待たなければならない。
いずれにしても明治の新村内海村(明治23年1月13日村政施行)が産声を上げるや、「護法の神」児島惟謙を事実上内海村から出したことは記憶にとどめておくべき誇りである。
内海突破 大正4年内海村魚神山に大工の2男として生れる。本名木村貞行。幼い頃から駄洒落や物真似が得意で同級生を笑わせていたという。学業の成績は優秀で大阪の浪速商業、関西大学と進学した。しかし笑い好きの性格はおさまらず芸人の夢は膨らむばかりであった。
昭和初期の大阪のお笑い界では「エンタツ・アチャコ」の新しい「しゃべくり漫才」が大人気で、突破は浪速商業の先輩、西条凡児の元に入門し芸人への道の第一歩を踏み出した。
昭和11年「西条凡々」の芸名でデビューを果たしたが、故郷内海から海峡を突破して大海原に出ようという希望を込めて、芸名を「内海突破」と改名し上京した。
昭和15年、10人目の相方に並木一路と巡り合い、突破の独特のボケを一路が受ける「一路・突破」の絶妙なコンビが客席の笑いをとるようになった。「一路・突破」のコンビはニュースや庶民の話題の中からネタを探して漫才を作り、新しいスタイルの二人の漫才は戦時下の庶民の明るい笑いを誘った。「西にエンタツ・アチャコあり、東に一路・突破あり」といわれるほどになる。
昭和20年軍隊に招集されたものの、戦後復員してからは活動を再開、「百万$ソング」など喜劇映画に出演するなど活躍した。昭和24年にコンビを解消してからはNHKのラジオコメディー「陽気な喫茶店」に出演し人気を博した。、生放送中セリフに詰まりとっさに出したギャグ「ギョギョッ」が思わぬ笑いを誘い、一躍流行語となり「ギョギョッのおじさん」として一世を風靡した。伴淳三郎や清川紅子など喜劇界の人気者達と並び、脂ののった活躍を見せていった。
素顔の内海突破は人気に溺れず芸作りに熱心で、酒やタバコはやらず甘いものが大好きだったという。昭和31年には内海村に凱旋講演をしている。