〜魚神山編〜


魚神山地区の由来

魚神山(ながみやま)地区は由良半島の南側中央よりやや先端部に位置する集落で、名の由来は魚の多くいる海の上(かみ)の山という意味か、あるいは眺見山、長見山、仲間山(共同開墾地)のいずれかの意味と考えられる。宇和海地方では「魚座(なぐら:魚が群れ輪になってじっとしている様)」「水魚帳(みずなちょう:水産物の販売等を記帳するノート)」など、「魚」と書いて「な」と読むことが多い。従って「魚神山」の「魚()」とは文字通り魚を意味し、魚の群れが良く見える山、魚の豊富な海を持つ集落ということからついた名前と考えるのが妥当だろう。
 寛永2(1627)年に魚神山の北隣の下灘浦ノ内須下浦が開発され、寳永8(1632)年に由良権現の御旅所が須下浦に建立されている。魚神山浦へはこの須下浦からの入植者が多かったと伝えられている。寛文7(1667)年の「西海巡見誌」には魚神山浦の記載がなく、この頃は集落としてまだ成立していなかったと思われるが、人が住んでいたことは想像される。
 貞享元(1684)年編纂の宇和島藩の租税台帳ともいえる「弌野」によれば、内ならし検地(寛文検地)時分に流人2、3軒を置き、これにより畑を開墾したり漁猟などしていたが、もともと畑としても漁場としても良い場所なので、柏崎浦より役人を遣わして、以後だんだん人が入植して増えたとある。内ならし検地は寛文10 (1670)年から寛文13 (1673)年にかけて実施され、宇和島藩から吉田藩を分家したための石高不足を補い、財政難を克服するため、それまでに1間を6尺3寸で測量していたものを6尺にして行われた検地である。当然百姓には不利な検地であるので、この検地に対する反対運動は強かった。この検地を担当したのが郡奉行八十嶋治右衛門親隆で、武断的な検地の進め方をしたと伝えられている。寛文10 (1670)11月、検地に反対する川内村庄屋の三好四郎右衛門に対して「お前たちの話は斬った後でする」として斬り捨てた(来村騒動)逸話から、宇和島近辺では「八十島斬っての相談」といわれるようになった。魚神山に置かれた流人とはこの来村騒動で検地に反対し連座した者ではないだろうか。ちなみにこの不当な検地に対して領内20か村の総代となって斬り捨てられた川内村庄屋三好四郎右衛門は「世直り様」として今でも祀られている。「弌野」では11(内1軒は網小屋)の人家があると記載されている。
 また、内海村史によれば延宝3(1675)年、魚神山浦は新浦として藩から認可されたとあり、組頭には宇和島藩士猪原家より遣わされ、兄が實藤治左衛門で柏崎浦の組頭となり、弟が三浦與左衛門として魚神山浦の組頭となったと伝えている。
 文化5(1808)年「伊能忠敬測量日記」では記載があり、組頭與左衛門宅に伊能忠敬一行は宿泊したとある。代々三浦家は與左衛門を名乗っているようである。
 魚神山の氏神である新御霊神社は崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、藤原広嗣、吉備真備、菅原道真を祭っている典型的な祟り神様である。神社名から京都にある御霊神社との関連が考えられる。大同2 (807)年に平城天皇の弟伊予親王とその母藤原吉子は謀反を企んだとして捕らえられ自害に追い込まれた。御霊神社は不運の内に亡くなった伊予親王と藤原吉子の霊を鎮め祟りを防ぐため、承和6 (839)年に創建されたとされる。その後、政争で敗れ、悲運の内に亡くなった崇道天皇ほか5柱を加えて八所御霊としている。
 一方、村人の間では昔から新御霊神社の祭神は明智光秀であるという言伝えがあり、光秀の悪逆をテーマとした「太閤記」を上演すると神の怒りに触れ、必ず凶変が起こるとして絶対しなかったという。どのような経緯から魚神山に光秀が登場してくるのか一切不明であるが、光秀を祭神とする神社で有名なのは京都福知山市にある御霊神社である。新御霊神社は直接的にはこの福知山の御霊神社から勧請してきたものではないかと推測される。また、想像の翼を広げると山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れた光秀の遺臣またはその子孫が魚神山に隠棲し、光秀の旧領福知山から勧請したのではないかとも考えられる。新御霊神社では毎年113日、御輿や南予独特の牛鬼、荒獅子、五ツ鹿が練り歩く秋祭りが今でも賑やかに続けられている。
 魚神山の人々は独立独歩の気風が強く、内海突破をはじめ村から飛び出して中央で活躍している人が多い。また、真珠稚母貝養殖においても早くから事業に取り組み、勤勉さと人一倍の努力を武器に、真珠御殿が最も早く建ち並んだ集落である。

※参考文献

大澤宏堂著「内海村史(上・下巻)

坂本達雄著「わが村の祖先研究」

高橋紅六著「南伊予の旅」

内海村発行「内海村50周年記念誌 時なる国、内海」