〜柏崎編〜



初期の真珠母貝養殖作業。貝掃除と思われる。 戦時中、出征兵士の武運長久を祈願して岩神社で奉納相撲が行われた。

柏崎地区の由来

柏崎地区はもともと柏地区と一体であったという口伝があり、明治23年の内海浦と柏村の合併根拠のひとつとなった。
 柏の伝説に古来、濱八軒というのがあり、これが柏のはじめで、次いで奥八軒というのがあったという。内海村史を編纂した大澤宏堂氏は柏湾沿岸に移住してきた人々は一系の一団で、移住の当初、農耕の得意な者は不毛の野を開墾して田畑を作って農夫となり耕作を主とし、漁獲に得意な者は海岸に住んで漁夫となり漁村を構えたことが八軒伝説の起因であると推定している。その後、奥八軒を奥、濱八軒を鼻と称し、何らかの理由でその付近一帯を柏と称するようになってから奥柏、鼻柏というようになり、次第に柏、柏崎と名称が変遷したものと思われる。近世になって柏崎は漁村であるので内海浦の一部として組み入れられたのだろう。
 寛文7(1667)年の「西海巡見誌」では家数が9軒と記載されている。
 内海忠太夫(内海浦庄屋6代實藤久左衛門か?:下灘浦庄屋赤松家より入夫)が庄屋の時(寛文・延宝年間16601680年頃)の役人名として勘兵衛という名が史料にある。また、「内海村史」によれば延宝3(1675)年、魚神山浦が新浦として藩から認可された時に、組頭には宇和島藩士猪原家より遣わされ、兄が實藤治左衛門で柏崎浦の組頭となり、弟が三浦與左衛門として魚神山浦の組頭となったと伝えている。また、貞享元(1684)年編纂の「弌野」によれば、柏崎浦から魚神山浦へ役人を遣わしたとある。
 以上のことからもともと勘兵衛という役人が柏崎浦を治めていたが、何らかの理由で、宇和島藩士猪原家から新たに役人として治左衛門が遣わされ、その後魚神山浦が新浦として認可されたときに、治左衛門の弟、與左衛門が柏崎浦から組頭として魚神山浦へ遣わされたと推定できる。内海浦庄屋實藤家と柏崎組頭實藤家の関係は不明である。
 寳永3(1706)年には氏神として岩神社を創建していることから、このころには人口も増え、集落機能も完備されたものと想像できる。
 安永3(1774)年には3代實藤仁左衛門が宇和島藩よりボラ網の認可を受けた史料が残っている。
 享和3(1803)年には桝屋久之S(増元久之S)の網舟が鯨に襲われた(一説には嵐に遭った)ため812(旧暦)には漁をしないという、漁止め祭りが始まった。
 文化5(1808)年6月6日には伊能忠敬の一行が柏崎の沿岸を測量している。
 立石地区の開拓は江戸時代後期、柏の大濱地区や須ノ川灘地区の開拓と同じころと思われる。
 明治維新を経て明治12(1879)年に内海浦戸長役場が平山から柏崎に移転し、明治23(1890)年の内海浦と柏村の正式合併まで役場事務が執られていた。
 組頭の實藤家は江戸時代末期から明治大正にかけて伊惣治、與三郎、大治郎と続き、實藤大治郎氏は明治39(1906)年から大正7(1918)年まで4期村長を務め、戸籍など統計事務に精通し、教育の向上普及、養蚕、柑橘栽培の奨励改良、通信交通機関の促進助成、避病舎建設など衛生事業に尽力した。
 明治45(1912)年、県道が菊川を経て柏まで完成した。柏崎へ向けての路線について当初、脇田から旧柏村庄屋宮下家の本宅の前を通り、柏川を渡って宮下家の蜜柑畑を通り、立石の山腹にある旧柏崎組頭實藤家の旧宅を経て、ハギノを越えるハギノ線が有力であった。しかし大正2年から3年にかけての柏崎区長であった中村要氏は、地区の利益を説いて住民をまとめ、海岸線(現在の旧国道)を路線とすることを陳情した。愛媛県は海岸線では難工事になるとして地元負担を要求し、柏崎住民も総会を開いて、背に腹は変えられず地元負担を了承し、全戸が署名捺印をして海岸線の嘆願書を作成した。中村要氏は望みを捨てず南宇和郡長横山譲氏に相談し、郡長の支持を取り付け県庁に乗り込んだ。結果、県は地元負担の要求を取り消し、海岸線を路線として測量を始め、大正4(1915)年には柏崎まで開通した。大正8(1919)年には鳥越隋道が開通し県道宇和島宿毛線は全通した。
 支那事変の後、柏湾の内外に海軍の艦艇が出入りするようになり、特に昭和16(1941)年夏には相当数の海軍小艦艇が入港した。これは同年12月8日の真珠湾攻撃のため、地形の似た平城湾で特殊潜航艇の訓練が行なわれた時の補助艦艇と思われる。
 敗戦色の濃くなった昭和20(1945)年6月22日には、アメリカ軍爆撃機B29が柏湾に4個の爆弾を投下したが、人的被害はなかった。
 昭和22(1947)年、普通選挙法による公選初代村長として柏崎の廣瀬友一氏が村長となり、内海村の分村問題に立ち会った。昭和22年5月より中浦、赤水、高畑、平山、深泥、坊城成川地区から相次いで分村及び離村の陳情書が出された。村議会では分村後の役場庁舎の位置を半島中央部に移転する狙いもあって、半島部の議員が賛成の動きを見せる一方、その動きに対して同年8月、柏崎区長浪口萬治氏は柏区長好岡正勝氏とともに地区住民をまとめ、柏・柏崎・須ノ川地区で独立し一村を形成することを陳情した。
 同年9月27日の村議会で中浦・赤水・高畑地区の分村独立及び平山・深泥・坊城成川地区の御荘町編入を諮った。中浦・赤水など南部地区の議員や由良半島部の議員は2分村に賛成し、柏・柏崎地区の議員は3分村を主張して反対し、須ノ川地区の議員は現状維持を主張して賛否に加わらないなど紛糾した。
 そのような状況の中、将来への禍根を恐れた廣瀬村長は愛媛県議会議員の立会による円満解決の道を探ったが、これも不調に終わり、昭和23年5月26日の村議会で愛媛県知事に分村に関する一切の事項を委任する案を提出した。これに対しても議論は分かれ、一時保留されることにことになったが、同日村議会議員織田平太郎氏から平山・深泥地区の御荘町編入及び中浦・赤水・高畑坊城成川地区の分村並びに役場移転に関する緊急動議がなされ、柏・柏崎地区の議員は反対するものの賛成多数で可決され、2分村の方向で決着することになった。懸案となっていた役場位置については次期総選挙後の村議会の議決で決定することとし、同年11月3日分村がなされた。
 昭和24(1949)年、内海村漁業協同組合が分割し、柏崎漁業協同組合が設立したが、昭和25年頃からイワシ網漁が不漁となり、内海村の水産業が壊滅的危機に瀕するや、産業振興協議会の答申を受けて、昭和32(1957)年再び由良、内海、柏崎の3漁協が内海漁業協同組合として統合され、柏崎に事務所が置かれた。以後内海村の水産業の中心地として水産業の復興に先進的役割を果たす集落となってきた。
 同年には柏崎青年団がアコヤ貝の天然採苗実験を行い、失敗するものの真珠産業への道を開いた。昭和33(1958)年に家串、油袋地区でアコヤ貝の天然採苗に成功し、アコヤ貝養殖が盛んになってくると昭和39(1964)年頃、三重県から珠入れ業者を誘致し、真珠産業の安定化を目指した。
 昭和42(1967)年頃、アコヤ貝の過剰生産で価格が暴落したものの、昭和50(1975)年頃から発展を遂げ、全国の真珠業者に安定的にアコヤ貝を供給し、昭和60(1985)年頃には「真珠貝のふるさと」として全国のシェアの7割を占めるまでになった。
 昭和58(1983)年、柏崎出身の高橋嘉馬氏が村長となり、平成2(1990)年まで2期務め、定期バスの網代乗り入れや中学校統合の実現、集会所や漁港施設の整備など生活基盤の拡充に尽力した。
 平成2(1990)年には同じ柏崎出身の中村政一氏が村長となり、海洋資源開発センターや保健センター、DE・あ・い・21の建設など地域づくり事業の推進に尽力したが、平成6(1994)年5月惜しまれつつ現職で亡くなった。
 平成6(1994)年秋、柏崎・平碆地区に真珠貝大量へい死問題がおこり、以後内海全域に広がり、隆盛を誇っていた内海村の真珠産業は壊滅的打撃を受けて現在にいたっている。柏崎地区は内海村の水産業の中心地として、逸早い水産業の復活が望まれる。

※参考文献

大澤宏堂著「内海村史(上・下巻)

坂本達雄著「わが村の祖先研究」

内海村発行「内海村50周年記念誌 時なる国、内海」