〜 柏の由来 〜

昭和32年ごろの柏のデンプン工場を中心に撮ったもの。


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柏今昔〜全体編〜

柏今昔〜建物編〜

柏今昔〜学校編

柏の由来

柏地区はもともと柏崎地区と一体であったという口伝があり、明治23年の内海浦と柏村の合併根拠のひとつとなった。柏という地名は山麓、谷壁、砂浜などの傾斜地に見られる地名であるが、内海村の柏地区はカシ(かしげる、傾く)という意味からきたものか、字の如く柏の木からきた地名か定かではない。
 柏の伝説に古来、濱八軒というのがあり、これが柏のはじめで、次いで奥八軒というのがあったという。内海村史を執筆した大澤宏堂氏は柏湾沿岸に移住してきた人々は一系の一団で、移住の当初、農耕の得意な者は不毛の野を開墾して田畑を作って農夫となり耕作を主とし、漁獲に得意な者は海岸に住んで漁夫となり漁村を構えたことが八軒伝説の起因であると推定している。その後、奥八軒を奥、濱八軒を鼻と称し、何らかの理由でその付近一帯を柏と称するようになってから奥柏、鼻柏というようになり、次第に柏、柏崎と名称が変遷したものと思われる。近世になって柏崎は漁村であるので内海浦の一部として組み入れられ、柏は農村であるので独立した庄屋が置かれたのだろう。
 柏地区の菩提寺法性寺の裏山に「串ヶ岡城(別名赤樫城)」という砦跡があり、柏川をはさんでその北方の下駄馬に「鳥ヶ巣城」という砦跡がある。いつの頃に作られた砦か定かではないが、両者の間で戦いがあったと伝えられている。前者の付近に「矢落」、後者の付近に「ぢょうがひら」という地名が残されており、明治初期にこの両者の付近にそれぞれ60基以上の五輪墓が残されていた。また、両砦の中間に「はるた」「吉良の岡」という地名があり、そこにも60基前後の五輪墓が残されていた。この墓石が三箇所に分かれていて、それぞれ60基以上もあったということは、これらの地区にかなりの生産力を持つ集団生活が営まれていたと推定できる。
 昭和53年に坂元達雄氏がまとめた「わが村の祖先研究」によれば、古くは柏湾の海は字「山崎」付近まで入り込んでおり、当時の地形や氏神金峰神社の位置、寺のようなものがあったと思われる「仏の川」という地名から考えて、柏で最も早く人が住み始めた地区を字「はるた」を含む「吉良の岡」一帯と推定している。「はるた」は明治時代まで戸数が数多くあり、医者や寺子屋などもあったという。「太田」という地名は近来「奥」と呼ばれているが、吉良の岡以北で観音岳の麓一帯のことである。明治年間まで十数戸の居住者がいたという。柏の谷の最も奥に今でも「山の神様」を祀っている。近くに「大蔵屋敷」という地名があり、金峰神社の前身が「蔵王権現」と呼ばれていたことから、元は柏の氏神はここに祭られていたのかもしれないし、そうするとこの地の方が「吉良の岡」より早い時代に開かれていたのかもしれない。「柏坂」の登山口は元々字「駄馬の谷」(坂元一洋氏宅付近)であったが、江戸時代に宇和島と御荘を結ぶ本街道となって、現在の位置「樋ノ口」(小島道代氏宅横)に変更された。前者を「坂元」、後者を「坂口」と呼んでいる。
 柏の草分で奥八軒の内と伝えられる石川長一、宮内喜太美両家のある「梶屋敷」は海が沖へ退くにつれて人が住むようになり、江戸時代には宮下家の庄屋所が置かれていた。
 さらに海が沖へ退いて、「北原」地区が開かれた。北原地区に住む木口家、松本家は長曾我部氏の南予侵攻時の落ち武者とも伝えられている。江戸時代末期には「蝋屋」こと木村家、「油屋」こと長尾家、「たかぎし」こと酒屋の中村家などがあり、商工業の中心地であった。
 「脇田」地区は比較的新しい時期の開発であると思われる。
 「宇和郡記」には慶長年間と思われる庄屋名が記載され、その中に柏彦十郎という名が見えるが何者かはわからない。
 寳永3 (1706)年編纂の「大成郡録」には柏村庄屋として與十郎の名があり、おそらく2代目の宮下家庄屋であろうと思われる。戸数は31軒、人口は男99人、女79人、計178人と記されている。宝暦7(1757)年に編纂された2度目の「大成郡録」には戸数は40軒、人口は男83人、女85人、計168人と記されている。
 宮下家が庄屋になった経緯は定かではないが、元禄14(1701)年に没した初代宮下與十郎をはじめ、2代宮下與十郎、3代宮下與十郎、4代宮下與助、5代宮下與十郎、6代宮下與十郎稠久、7代宮下與十郎悠久、8代宮下平五兵衛方久などの名が宮下家の墓碑から確認できる。その他の史料には庄屋名として平五兵衛や五六兵衛、宮下林之助の名が見られる。
 文化5(1808)年に伊能忠敬が測量に来た折には柏村庄屋平五兵衛が案内している。
 6代宮下與十郎稠久は文政年間に内海浦の漁民が大濱地区の開拓を代官に願い出ていることを聞き、16歳から60歳までの住民を集め、先手を打って大濱地区の開墾を説いたが応ずる者がなかった。稠久は特に内海松之助を呼び、大濱地区の開拓を頼んだ。文政6(1823)年、藩の許可を得て松之助は開拓を始めた。
 組頭として儀平や樫田源太郎などの名前が史料により残っているが、江戸時代末期には桑田久太郎が組頭となっている。
 柏地区の菩提寺法性寺は、寺伝によれば最初弘法大師垂錫の寺で、行基が作ったとされる観世音の木像及び弘法大師自らが作った大師木像を安置していた。その後一遍上人が女中庵仏堂を造営したが、戦国時代の兵乱で焼失した。その後岳壽禅師が望海山法性寺と改称して開山した。その後金牛和尚が法地として開いたとしている。
 天和元(1681)年井関盛英著「宇和旧記」によれば、御荘興禅寺の末寺に望海山法性寺が柏村にあり、昔は妙泉寺と言っていたとある。
 また宝永3(1706)年神尾運慧編纂「大成郡録」の柏村の項に寺1か寺、平城興禅寺末の禅宗、望海山法性寺があるとしている。
 大澤宏堂著「内海村史」によれば、戦国時代に俗称「ジョチュウアン」という庵寺が現法性寺西方100m.のところ「庵屋敷」と言われる所にあり、長宗我部時代に兵火によって消失してしまったという。この「ジョチュウアン」とは「女中庵」ではなく「浄潮庵」であろうと思われ、本尊は観世音であったという。これが柏村妙泉寺の前身であろうと思われる。
 また法性寺北方60メートルの畑の中に「大師剃りの川」と称する井戸が現存する。古くは小川であってどんな旱魃でも枯れたことがないという。伝説ではここで弘法大師が髯を剃って身を清めたという。大澤宏堂著「内海村史」も弘法大師がこの地を遍歴したことについて懐疑的ではあるが、真偽はともあれ、法性寺の前身妙泉寺が真言宗であったと記していることからも、法性寺は真言宗との関連が想像され、必然的に大師伝説が生まれたことも容易に想像できる。また柏地区に古来から伝わる念仏の形式は時宗そのものであるというから、時宗の寺だったのかもしれない。妙泉寺の時代には明確な宗旨は無く、住職そのものが宗旨で、真言宗であったこともあり、また天台宗であったり、時宗であったりしたのであろう。
 妙泉寺は開山年代も位置も不明であるが、現法性寺と同一であったのだろう。妙泉寺は後に「望海山法性寺」と改名し、正保年間に曹洞宗の興禅寺十世の量峯岳壽禅師が寺院を建立し法地(導師の立つ資格の寺)として正式な手続きを経て開山したものと思われる。しかし量峯岳壽禅師は正保4(1647)年2月17日に没し、第2世住職金牛和尚が来るまで平僧地(導師が立つことのできない寺)の取り扱いを受けたのである。
 第2世住職金牛和尚は博学多才の人で法性寺だけでなく上浮穴郡千如寺や東宇和郡山田地蔵寺の中興の祖として世に知られた人物である。金牛和尚の時代、法性寺の寺子屋は相当盛んで、その徳望を慕った者が多く、庄屋宮下亀一郎や組頭桑田久太郎などは金牛和尚の教え子である。安政元(1854)年金牛和尚は北宇和郡下灘村(現津島町)浦知の庵で没した。没後火葬に付し、遺骨は法性寺中興の祖として法性寺墓地に埋葬されている。
 氏神金峰神社は、元は蔵王権現あるいは蔵王宮とも呼ばれ、創立年代や創立の起因は一切不明である。祭神は安閑天皇で、神社の名前から奈良県吉野の金峰神社との関係も考えられるが、よくわからない。宝暦4 (1754)年に再建され、寛政8(1796)年にも改築されている。この時の棟札には「寛政八年丙辰六月十九日棟上庄屋五六兵衛組頭儀平横目覚左エ門五人頭源六同宇八同彌之助同與平願主柏村中」とある。また「蔵王宮」と書かれた神号額があり、これは安政6年5月に柏村の源太郎と虎吉が奉納したものである。明治6年11月には蔵王宮を金峰神社と改称し村社に指定された。
 維新後明治4年3月、宇和島藩の郷中改正で内海浦から須ノ川地区が分離され柏村に編入された。これは須ノ川を除く内海浦が浦方(漁村)であるのに対し、須ノ川は柏村と同じ村方(農村)であるための処置であろうと思われる。
 明治4年7月、廃藩置県が行なわれ、一時庄屋を廃して差配役が置かれたが、1028日には再び庄屋役が置かれ、柏村庄屋役には宮下亀一郎(宮下家9代目)が就任した。
 明治4年1115日に宇和島県・吉田県・大洲県・新谷県が合併し宇和島県が置かれ、明治5年6月23日に神山県と改称された。明治6年2月に大小区制が実施され、神山県の管轄を11大区にわけ、旧御荘組(現南宇和郡)を第2大区とし、内海浦・柏村・菊川村・長洲村を第2大区5小区とした。
 明治6年2月20日、石鐡県と神山県が合併し愛媛県が置かれ、第2大区(現南宇和郡)は第29大区となった。明治6年3月、公選の戸長を置き、戸長には柏の旧庄屋宮下亀一郎が就任し、明治7年まで務めた。
 明治7年5月に旧御荘組(現南宇和郡)を第14大区とし、内海浦・柏村・菊川村・長洲村を第14大区1小区とした。
 明治9年8月に香川県を愛媛県に編入したため行政区画を改正し、旧御荘組(現南宇和郡)を第21大区とし、内海浦・柏村・菊川村を第21大区1小区として編成替えをした。このとき戸長役場が柏に置かれた。
 明治11年7月に郡区町村編成法が公布され、それに伴い大区小区は廃され、旧御荘組は南宇和郡となり、内海浦・柏村・菊川村はそれぞれ戸長役場をもつことになった。柏村戸長は旧組頭の桑田久太郎が就任し、明治1712月の内海浦との合併まで務めた。
 明治23年に内海浦と柏村が正式合併して内海村となってからは柏に役場が置かれ、行政の中心地として発展することになる。
 明治7年1116日には北原荘三郎氏が柏郵便取扱所を開局、郵便事務を開始し、明治8年には篠原学校が設立され、明治15年には柏交番所が建築されるなどの明治の近代化を進めていった。
 明治18年には松浦松治氏が柏坂に牧場の設置を出願し、許可を受けて放牧を始め、同年宮下亀一郎氏は愛媛県から機械を借りて始めて機械製糸を試みた。
 明治20年3月10日、柏の浜で「龍ヶ浜」(山口某)の追善相撲を開催中、夜10時ごろ法性寺本堂より失火、火事と見るやすぐに相撲をやめ消化に駆けつけたが、ことすでに遅く障子2枚を残して全焼してしまったという。当時の住職久我實翁は柏脇田で小売商をしていたのだが、本堂の燈明を上げたまま寺を留守にし下山していた。おそらく燈明からの失火が原因であったのであろう。この火事により宝物古器物のほか過去帳もすべて焼けてしまったようだ。
 明治20年檀徒の負担によって庫裏を建立、明治2510月には同じく檀徒の負担によって本堂を再建した。このとき檀徒は98戸、うち正檀家40戸、半檀家38戸、準檀家20戸であった。障子2枚だけを残して丸焼けになった寺院を元通り再建した
 金峰神社は古くから地芝居を催す慣例があり、明治時代には濱本仲治、平尾菊太郎など素人役者としてかなり名が知られた者もいた。明治34年に金峰神社の例祭にはじめて神輿渡御の神事がおこなわれ、その後数年の間に氏子各組も牛鬼、四つ太鼓、唐獅子、五ツ鹿などの練物を出すようになり、現在にいたるまで毎年113日には盛大な秋祭りを催している。
 昭和18年3月には旧柏村庄屋一族の宮下荘造が村長となり、戦時体制下の村政に尽力した。敗戦後、昭和2111月に辞職している。
 昭和18年7月21日から26日まで激しい雨が降り続き、柏川が決壊し田畑家屋等の被害が甚大であったという。
 昭和22年に始まる分村問題では、分村後の役場庁舎の位置を半島中央部に移転する狙いもあって、半島部の議員が賛成の動きを見せるのに対して同年8月、柏区長好岡正勝氏は柏崎区長浪口萬治氏とともに地区住民をまとめ、柏・柏崎・須ノ川地区で独立し一村を形成することを陳情し、最終的には柏からの役場移転を阻止した。
 昭和52年の内海診療所の建設、平成5年の保健センター建設、平成14年の特別養護老人ホーム「柏寿園」の建設など、柏地区は医療福祉の中心地でもある。
 昭和59年には自治会を中心に柏を育てる会を結成し、翌60年から獣道と化していた柏坂旧へんろ路を下刈りして復元した。柏地区は毎年2回の旧へんろ路下刈り、桜の苗の植樹、休憩所やベンチ・トイレ・案内板などの設置のほか、平成6年には柏地区自治会主催によるへんろ路ウォーク大会開催など、へんろ路を中心とした地域づくり活動を熱心に進める地区として注目されている。

※参考文献
      大澤宏堂著「内海村史(上・下巻)
      坂本達雄著「わが村の祖先研究」
      内海村発行「内海村50周年記念誌 時なる国、内海」