網代地区の由来
 

 網代地区は由良半島の先端部に位置する集落で、本谷、本網代、荒樫の3地区に分けられる。「網代」とは漁場のあるところを意味し、その名の通り、網代地区は優良な漁場を有し、漁業によって発展してきた地区である。

 網代地区の歴史は元々土佐国和田村からやってきた和田又四郎の孫、儀右衛門による開拓が始まりである。又四郎の先祖は藤原氏の流れを汲み、尾張国の家老錦織氏に仕えていたが、後に土佐国幡多郡領主一条氏に仕え、幡多郡平田村高知座神社で代々神官を勤めていた。その12代目の宮林清古郎吉徳の2男権上吉教は和田村一宮神社の神官をしていたが、享保4年に和田村を出て諸国放浪の末、宇和島領内の魚神山浦に居を構え、名を和田又四郎と改め農業に就いた。
 その後又四郎の子、平藏が後を継ぎ、商業を営みはじめたが、父又四郎が亡くなった後、和田村の本家を訪れ、後事を相談しようとしたが、粗略に扱われたことに憤慨し、以後親交を絶って悲憤のうちに文化2(1805)年没した。

 平藏の子、儀右衛門は家を継いで、文化5(1808)年2月に由良半島の由良山の麓に一浦を開拓しようと、有志20名を募り、藩の許可を受けて翌年2月より開拓に着手した。しかしその年儀右衛門は開拓の心労からか45歳の若さで死んでしまう。由良山を焼払ったため由良権現の祟りにあったのだという流言により、同志も離散し開拓は中断する。
 しかし儀右衛門の子、萬藏は父の宿望を果たすため、内海浦庄屋實藤平左衛門の協力により文政4(1821)年開拓を引き継いで再開した。同志は辨藏(松江)、磯吉(大目)、善作(松綱)、與助(鈴木)、文治、鐵之助、清三郎(鈴木)、彌十郎(粟野)、政次郎(岩志)、新平(黍野)、千太郎(大根)、三藏、彦之Sである。畑を開墾するため山林を切り開くも、猪鹿の害を除くのに苦労した。

 文政7(1824)年、畑の開発をひとまず止め、漁を始め、徐々に収入も増加し、文政10(1827)年には小網から大網に変換するまでになった。
ところが天保4(1833)年2月25日夜半より明け方まで火災が発生し、網代の家屋財産は一夜のうちに灰に帰した。萬藏は魚神山組頭の三浦家や内海浦庄屋の實藤家に援助を乞い、助力を受けて開発を再開した。しかし、この動揺で同志の文治、鐵之助、彦之Sは逃散してしまった。
 同年秋には猪鹿の被害を抑えるため、魚神山浦の同意を得て共有草山の創設を藩に願出て、翌年にかけて樹木を伐採して焼払い共有草山を作った。これにより獣害が極端に減り、開墾は一気に進む事になった。

 弘化3(1846)年4月萬藏は網代浦長を拝命し、姓を名乗る事を許され、浦和盛次兵衛と名を改めた。同年秋、長門の国から人が来て大敷網の技術を教わり、12月に藩に願出て許可を得て、60両もの大金を投じ、翌年3月に由良鼻の高出碆より三ツ碆の間に大敷網を開業した。この大敷網で浦和家は巨万の富を得る事になる。嘉永2(1849)年には波止場築造に着手し、翌年3月に完成、また、字カラ池にも大敷網を出願し許可を得て網代浦は名実ともに安定した漁村として発展した。

 盛次兵衛は家督を長男壽老に譲り、平内と名を改めたが、長男壽老は体が弱く、5男盛三郎が後を継ぐことになった。
 明治3(1870)年9月平民にも苗字を名乗ることが許可されたが、網代地区民の苗字の多くは盛三郎がつけたものと伝わっている。荒樫地区には野菜(眞菜、株菜、稗野、粟野、麥田、黍野、大根、根深など)、本網代地区には魚(岩志、濱地、鱒、鈴木、高魚、福戸など)、本谷地区には漁具(松綱、木網、大目、立目、目関、大敷、有請など)からとられた苗字に決められた。

 明治5(1872)年には網代の土地を村人に配分し、明治8(1875)年には小学校を創設、その他菩提寺の誘致、波除石垣の修復、浦和道路の建設など地区の生活基盤整備に力を入れていった。
 明治22(1889)年5月には当時南宇和郡では最大の建造物「浦和家魚類製造家屋」を建設し、網代や内海村だけでなく、日本の水産業の更なる発展を期した。

 盛三郎の死後、浦和家は衰退していくが、網代地区民の開拓にかける情熱と勤勉さは後の世代にも受け継がれ、昭和50年代から60年代にかけての真珠産業の隆盛期においても、辺地でありながら村内で最も経済的に豊かな地区としてその名を知られるようになった。




※参考文献
内海村指定文化財「網代開拓由來」
大澤宏堂著「内海村史(上・下巻)」
犬伏武彦著「南海僻隅の痴蛙なれど−浦和盛三郎伝−」
坂本達雄著「わが村の祖先研究」