野口雨情

野口雨情は明治15年(1882年)に茨城県にある楠正季の子孫といわれる名家生まれた。そのころ野口家は広大な山林田地を有し、回船問屋を営んでいたので奉公人も十数人おり、秋には年貢米が土蔵に一杯山積みされるほどの豪勢を極めていた。雨情はそのような名家のお坊ちゃんとして育てられたので気の弱いところがあったが、反面負けず嫌いなところもあり、そのためあまり友達ができなかったという。豪勢を誇る野口家にも翳りがみえはじめ、雨情が9歳のとき、持船2艘を破と火災で失い、父量平は少なからぬ負債を抱えることとなった。
 雨情は小学校を卒業すると上京し伯父の家から中学校に通い、ついで東京専門学校(今の早稲田大学)に入学して坪内逍遥の指導薫陶を受けた。イギリスの詩人ロバート・バーンスを知り、その詩を愛するようになったのはそのころではないかと思われる。しかし、学ぶこと一年余りして雨情は学校を中退した。
 そのころ日本の詩壇は新体詩の新しい時代に入りつつあり、与謝野鉄幹・島崎藤村・土井晩翠などが詩集を続々と刊行している。雨情の中退はこのような詩壇の趨勢に詩心を燃やしたものと思われる。
 そんな中、雨情に突然の不幸が訪れた。明治36年(1903年)には父量平が村長在職中に死亡し、雨情は郷里に帰り家督を相続して家業を守ることになった。
 結婚後間もない明治38年(1905年)、自費出版の処女詩集「枯草」を出版した。
 明治39年には父の残した借財整理の煩わしさから逃げたかったのか、単なる旅への憧れか、雨情は当時日本領であった樺太へ渡る。数ヶ月の漂白の後、樺太より上京して、翌明治39年には「朝花夜花」を出版している。それまでの詩と比べ一段と詩性が高まっており、新体詩調と俚謡性を止揚し、詩性と歌謡性が渾然一体となって芸術民謡の土台をなしている。
 「朝花夜花」を出版した頃、早稲田詩社が結成され、雨情もこれに参加している。その後まもなく坪内逍遥の斡旋により新聞記者の職を得、北海道の新聞社を渡り歩いた。
 明治44年(1911年)母の死をきっかけに郷里へ戻った雨情は父の残した借財整理の傍ら、山林農場の管理などにあたっていた。山へ出かける時はモンペに頬かぶり、腰に山刀といういでたちで、すっかりその仕事の人物になりきって飾るところもなかったという。雨情が詩壇から離れている頃、中央では三木露風、北原白秋、石川啄木、高村光太郎など新進詩人たちが活発に活躍していた。
 大正4年(1915年)から数年の間は離婚と再婚を経験し、大正8年(1919年)に詩集「都会と田園」を出版した。雨情唯一の自由詩集で、都会と田園を詠じた21篇の詩が収められている。「都会と田園」は詩壇から忘れられかけていた雨情の存在を認識させ、中央詩壇会復活への道を開いた。
 大正8年(1919年)に斎藤佐次郎によって「金の船」が創刊され、雨情は毎号童謡を書き「人買船」「十六角豆」「山椒の木」など優れて個性的な作品を次々と発表した。翌年編集部員として迎えられて上京し、雨情の童謡詩人の地位を確立したといわれる「十五夜お月さん」を発表した。翌大正10年(1921年)には「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」など名作を次々に発表している。こうして大正中期に興った童謡運動の中で北原白秋、西条八十とともに天下を三分し、童謡界の三大詩人といわれるほどの活躍を見せた。雨情は「唱歌は歌わせるために作られたもの、童謡は歌われるために生まれたもの」とし、「巧利巧智に走らず、清新素朴な感情を詠ったもの」をあげ、特に郷土的童謡を主張した。雨情はその後も「黄金虫」「シャボン玉」「あの町この町」「雨降りお月さん」「証城寺の狸囃子」など、広く愛唱される歌を次々と書いていった。
昭和期に入るとラジオ放送を通じてレコード会社による流行歌が流行り、満州事変以後はレコード、放送の取締りがなされ、子供たちの歌も軍国主義化され、童謡は締め出されることになる。
 童謡界の興隆に雁行して新民謡(創作民謡)が盛んになり、雨情、白秋はもとより三木露風、佐藤惣之助、白鳥省吾、西条八十など多くの詩人が民謡創作に筆を染め、多くの民謡集が次々と出版された。大正11年(1922年)雨情は作曲家の藤井清水、声楽家の権藤円立と知り合い、彼らが主宰する「楽浪園」に参加し、全国各地で講演と演奏会を開くようになった。雨情、藤井、権藤の三人は作詩、作曲、歌唱というコンビの面から「新民謡界の三羽烏」といわれるようになった。
 歌謡歌曲としての新民謡が盛んになるにつれ、新作地方民謡が勃興した。その先駆けとなるのが雨情の「須坂小唄」(中山新平作曲)である。この歌が大正15年(1926年)に放送されたことによって地方民謡の新作が一般の関心を呼び地方民謡新作ブームが巻き起こった。やがてレコード化され、中には電波に乗って全国的となるものもあった。「三朝小唄」「上州小唄」「鎮西小唄」「犬山音頭」「磯原節」など雨情の作詩のものである。
 しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると、社会は次第に戦時色が強まり、歌謡の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となった。雨情は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったのでその活躍の場も次第に狭まることになったが、それでも雨情の雅致雄渾の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もした。
 内海村史によると雨情は昭和12年ごろ来村し、柏に一週間ほど滞在して、この間に以下のような詩を内海村に残している。
         1. 「沖の黒潮荒れよとままよ船は港を唄で出る」
        2. 「松の並木のあの柏坂、幾度涙で越えたやら」
        3. 「松はみどりに心も清く人は精神満腹に」
        4. 「松の小枝でやぶ鶯は雪のふる夜の夢を見る」
        5. 「山は遠いし柏原はひろし水は流れる雲はやく」
        6. 「遠い深山の年ふる松に鶴は来りて舞ひきて遊ぶ」
        7. 「雨は篠つき波風荒りよと國の柱は動きやせぬ」
        8. 「空に青風菜の花盛り山に木草の芽も伸びる」

 この他にもいくつかの詩を残しているが、以上のうち内海村に現存しているのは2である。特に2は「柏坂」という地名を詠った詩で他には見られない雨情の詩として、内海村にとっては実に貴重なものである。
 昭和18年(1943年)、雨情は突然軽い脳出血に冒され、それまで全国を駆け歩いていた雨情はそれ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開したが、昭和20年(1945年)1月、家族に見守られながら静かにこの世を去った。


 ※参考文献;
   昭和28年大澤宏堂著「内海村史下巻」28頁
   平成4年古茂田信男著「七つの子 野口雨情 歌のふるさと」